大阪高等裁判所 昭和31年(ネ)1396号 判決 1958年5月19日
控訴人 天野利三郎
被控訴人 川田小三郎
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実
控訴人訴訟代理人は、「原判決を取消す。被控訴人の請求を棄却する、訴訟費用は第一、二審共被控訴人の負担とする。」との判決を、被控訴人訴訟代理人は、「控訴棄却」の判決を求めた。
当事者双方の事実上の主張は、
控訴人訴訟代理人が、「仮りに本件小切手が白地小切手として有効としても、(一)、(1) 、控訴人は本件小切手を中井証券株式会社に見せ小切手として貸与し同社の社長中井恒三にのみ白地の補充権を授与したものであつて、右中井証券株式会社は昭和二十六年七月末解散し同年八月二日廃業届をしたから、爾後最早や同社に対する財務局の資産検査はありえないから、右検査の際の見せ小切手として本件小切手を使用する必要がなくなつたので本件白地小切手の補充権は右会社の廃業と同時に消滅した、従つてその後に本件小切手を取得した控訴人には右補充権はない。(2) 、仮りにそうでなく、被控訴人は本件小切手を、中井証株式会社に昭和二十五年九月九日貸した八十万円の貸金支払確保のため受取つていた同社振出の約束手形と交換して取得したものであるとしても、被控訴人は中井証券株式会社が大阪証券取引所に差入れていた保証金中より三十万円の弁済を受け右貸金債権の完済を受け本件小切手は反古に帰し同社に返還すべきものであるから、被控訴人には最早や本件小切手の補充権はない。
(二)、(1) 、およそ白地小切手の補充権は小切手上の権利と同一の消滅時効期間によつて時効消滅するものと解すべきであるところ、小切手上の権利の消滅時効期間は六ケ月ないし一年であるから、小切手の補充権も右と同一の時効期間の経過によつて消滅するものである。しかして本件小切手は中井証券株式会社に財務局の資産検査に際しての見せ小切手として貸与したもので、同社の社長中井恒三が右目的のため本件小切手を白地を補充して使用したときは、同人より直ちに同額の小切手の交付を受ける約束であつたから、本件小切手の補充権は右会社の解散廃業によつて消滅時効期間が進行を始める性質のものであるところ、右会社は昭和二十六年七月末解散し同年八年二日廃業届をしたから、本件小切手の補充権の消滅時効期間は同日より進行を開始し本件小切手の振出日が補充されたときはすでに時効は完成していたのであるから、右補充は無効である。(2) 、仮りに時効に関する右主張の理由のないときは、原審に於てなした時効期間を三年ないし五年とする消滅時効の主張をするものである。
(三)、仮りに以上の理由がないとしても、控訴人は本件小切手を昭和二十四年九月末中井証券株式会社に貸与したものであるところ、右会社は昭和二十六年八月二日廃業しその後三年余経過するも本件小切手につき何人からも請求を受けたことがないのであつて、控訴人は最早や本件小切手が白地を補充され権利行使されることの疑さえ抱かなくなつて、たのであるから、右補充権は権利自壊の原則よつてすでに失効している。」
と述べ
被控訴人訴訟代理人が、「(一)中井証券株式会社が控訴人主張日時廃業したことは認める。(二)控訴人が本件小切手を振出したと主張する昭和二十四年九月下旬頃は中井証券株式会社には相当の資産のあつたことは甲第三号証の一、二、同第四号証の一ないし三によつて明かであるから、財務局の検査に際して控訴人より本件小切手を借受ける必要はなかつたのであつて、本件小切手は控訴人が中井証券株式会社との取引の損金のため又は中井恒三個人との思惑投機の決済のため振出したか或は中井恒三が被控訴人に対する債務支払のため控訴人から融通を受けたものである。(三)仮りに本件小切手が控訴人主張のように所謂見せ小切手であるとしても、その補充権が中井証券株式会社の廃業によつて消滅するものではない。」と述べた他、原判決の事実摘示と同一であるから、これを引用する。
証拠関係につき、被控訴人訴訟代理人は、甲第一、二号証、同第三号証の一、二、同第四号証の一ないし三を提出し、原審及び当審での証人中井四郎、原審での証人河本尚の各証言、原審及び当審での被控訴人本人尋問の結果を援用し、乙第一号証は不知、同第二号証は成立を認めると述べ、控訴人訴訟代理人は、乙第一、二号証を提出し、原審及び当審での証人山野種男、原審での証人多田健夫、同木村直敏、当審での証人吉村長次郎の各証言、原実及び当審での控訴人本人尋問の結果を援用し甲第一号証は控訴人の署名押印の部分は成立を認めるが、振出日付の部分は否認する同第二号証、同第三号証の一、二はいずれも不知、同第四号証の一ないし三はいずれも成立を認める、と述べた。
理由
被控訴人の署名押印したものであることに争のないところから、振出日付以外の部分につき真正に成立したと認める甲第一号証、原審及び当審での証人山野種男、原審での証人多田健夫の各証言、原審及び当審での控訴人本人尋問の結果によると、控訴人は昭和二十四年九月末頃中井証券株式会社の代表取締役中井恒三から、同社が大阪財務局より資産検査を受ける場合に備え、形式上同社の不足資産を補うため控訴人振出の小切手を貸与されたく、若し右検査に際し右小切手を使用したときはその見返りとして直ちに同社より控訴人に同額の小切手を振出交付する旨の懇請を受けたので、これを応諾し、検査の際同社に於て振出日を補充しうるよう振出日を白地とし金額八十七万五千円振出地大阪市支払人株式会社大阪銀行歌島橋支店とする小切手を作成して右会社に交付したことが認められる。右認定に反する原審及び当審での証人中井四郎の証言は信用することができないし、成立に争のない甲第四号証の一ないし四、原審での証人河本尚の証言によつて成立を認めうる甲第三号証の一、二、を以つてしても右認定を覆えすに足りない。
右認定の事実からすると、控訴人は中井証券株式会社が財務局の検査に際して小切手として使用するものとして振出日を白地として作成交付したものであるから、控訴人は有効な白地小切手を振出したものと言うべきである。
次に前記甲第一号証、竝に原審での証人河本尚の証言、原審及び当審での被控訴人本人尋問の結果によると、被控訴人は中井証券株式会社に対し昭和二十五年九月頃八十万円を貸与し、その支払確保のため同会社振出の金額を利息を加えた八十七万五千円の約束手形を受取つていたが、昭和二十六年七月末右中井証券株式会社が廃業(この事実は当事者間に争がない)して整理中同社の代表取締役中井恒三から、同年十月頃右手形と交換に本件小切手の交付を受け、右会社の不動産を処分して前記借金を返済するからそれ迄本件小切手の振出日を補充して呈示することをまたれたいとの申入れを受け被控訴人はこれを了承した。しかるにその後中井証券株式会社は不動産の処分をしたに拘らず被控訴人に対する前記借金の返済をしなかつたので、被控訴人は本件小切手による支払を受けるべく、当時被控訴人は銀行との当座取引がなかつたので、銀行との当座取引のある河本弁護士に昭和二十九年八月上旬その取立を依頼して本件小切手を交付し、同弁護士は同年八月九日取立の必要上被控訴人のため振出日を同日と補充し同月十一日自己の取引銀行である株式会社神戸銀行北浜支店に振込み支払人である株式会社住友銀行歌島橋支店(株式会社大阪銀行は株式会社住友銀行と商号を変更したものであることは原審での証人木村直敏の証言によつて認められる)に呈示したが、支払を拒絶されたので本件小切手に支払拒絶の宣言を記載させた上返却を受け、次いで被控訴人より本件小切手による小切手金請求訴訟提起の委任を受け、被控訴人のため本件小切手を占有していることが認められ、被控訴人が本件小切手を取得するに際し中井証券株式会社と被控訴人間の前認定の本件小切手振出事情を知つていたこととを認めうる証拠はない。
控訴人は被控訴人が本件小切手取得に際し中井証券株式会社にその処分権限の有無を控訴人につき確めなかつたことは重大な過失であると主張するが、被控訴人が善意である限り仮りに重大な過失があつたとしても、控訴人は中井証券株式会社との間のこの点についての特約をもつて被控訴人に対抗できないのみならず、前段認定の事情の下に於て被控訴人が本件小切手取得に当り中井証券株式会社の処分権限の有無を振出人たる控訴人につき調査しなかつたとしても、これを以つて被控訴人に重大な過失のあるものと言うことができないから、控訴人の右主張は採用しえないい。
控訴人は本件小切手の白地補充権は中井証券株式会社の廃業によつて当然消滅したと主張し、中井証券株式会社が昭和二十六年七月末廃業したことは前記認定の通りであるが、白地小切手の補充権は原則としてその小切手と共に取得者に移転するものであつて、これを制限する特約はその当事者間に債権的効力を有するに過ぎないものであり、従つてこの点に関する悪意又は重大な過失ある取得者には右特約を以つて対抗しうる人的抗弁たりうるに過ぎないものと解せられる、本件小切手は前認定のように中井証券株式会社が財務局の資産検査に使用するため取得したものであるから、同社が廃業し右検査を受ける必要のなくなつた以上最早や同社は本件小切手の白地を補充して小切手として行使することはできないけれども、これがため右補充権自体が絶対的に消滅するものと解すべき根拠はなく、右補充権は本件小切手の善意にして重大な過失のない取得と共にその取得者に移転するものと解すべきである。被控訴人が控訴人と中井証券株式会社間の右振出事情を知つて取得したものでないことは前に認定したとおりであり又前示のような事実関係の下ではこれにつき重大な過失のないものというべきであるから、被控訴人は本件小切手の取得と共にその白地補充権も有効に取得したものと言わねばならない。控訴人の右主張は採用するをえない。
次に控訴人は本件小切手は被控訴人が中井証券株式会社に対する貸金の支払確保のため取得したものであるところ、同社に対する被控訴人の右貸金債権は弁済によつて消滅しているから、本件小切手の補充権も消滅していると主張するが、かゝる控訴人主張事実を認めうる証拠はない。もつとも当審での被控訴人本人尋問の結果によると、被控訴人は昭和二十六年三月頃中井証券株式会社が大阪証券取引所に差入れていた保証金の中から三十万円の支払を受けたことが認められるが、これは被控訴人が中井証券株式会社に株式の売却を委託した売却代金の残額の支払を受けたものであることが認められるから、控訴人の右主張も理由がない。
次に控訴人は本件小切手の補充権はすでに時効によつて消滅していると主張するから考えるのに、白地小切手の補充権は一種の形成権と解せられるが右補充権はその行使によつて当該未完成の小切手を完成させ小切手上の権利を有効に発生させるものであることを考えれば通常の形成権と異り商行為によつて生じた債権に準じ商法第五百二十二条を準用して五年の時効によつて消滅するものと解するを妥当とする。小切手法は小切手が専ら支払手段たる金銭と同様の経済的機能を有することに着目して所持人の裏書人振出人その他の小切手上の債務者に対する小切手上の権利の消滅時効を六ケ月と定めているが、これは完成した小切手上の権利の消滅時効であつて、補充権は未完成の小切手を完成せしめる権利であるからすでに完成した小切手に基く小切手上の権利と同日に論ずるをえないし、その時効期間を完成した小切手上の権利の消滅時効期間より長期の五年と解しても彼是均衡を失するものとは考えられない。まして補充権の消滅時効期間を三年と解することは小切手の場合何らの根拠がない。そして右時効の起算日は小切手を振出し受取人に交付した日を以つてすべきであるところ、本件小切手を控訴人が中井証券株式会社に振出交付したのは前認定のように昭和二十四年九月末頃であり、河本尚弁護士が被控訴人のために振出日を補充したのは昭和二十九年八月九日であつて、その間五年を経過していないから右補充は消滅時効完成前になされたものであつて有効である。右と異る控訴人の消滅時効に関する主張は採用しえない。
更に控訴人は本件小切手の補充は弁護士河本尚が弁護士法第二十八条に違反して本件小切手を譲受けてなしたものであるから、結局無権利者による補充であつて無効であると主張するが、弁護士法第二十八条に所謂係争権利と言うのは訴訟の目的となつた権利であつて現にその訴訟の係属中の権利を謂うものと解すべきところ、河本尚弁護士は被控訴人より本件小切手の取立の委任を受け被控訴人のため白地を補充した上自己の取引銀行に振込み取立のための呈示をしたところ支払を拒絶された後、改めて被控訴人より本件小切手金請求訴訟の委任を受け本訴を提起したものであることは前認定の通りであるから、河本尚弁護士には何等弁護士法第二十八条に違反するところはない、従つて控訴人の右主張はこの点に於てすでに失当である。
尚更に控訴人は本件小切手の補充権及び小切手上の権利は権利の自壊による失効の原則によつて失効し本件小切手の補充権竝に小切手上の権利の行使は許されないと主張するが、前示認定の事情からすれば、いまだ控訴人に於て本件小切手の補充権竝に小切手上の権利がもはや行使されないものと信頼すべき正当の事由を有するに至り、これがため被控訴人が本件小切手の振出日を補充し且本件小切手上の権利を行使することが信義誠実に反すると認められるような特段の事由があるものと言えないから、控訴人の右主張は採用しえない。
そうすると控訴人は被控訴人に対し本件小切手の所持人として小切手金八十七万五千円とこれに対する呈示の翌日である昭和二十九年八月十二日以降支払済迄小切手法所定の年六分の割合の利息とを支払わねばならないことは明かでこれを求める被控訴人の本訴請求を認容した原判決は相当であり、控訴人の本件控訴は理由がないから棄却すべきである。よつて控訴費用の負担につき民事訴訟法第九十五条第八十九条を適用して主文の通り判決する。
(裁判官 大野美稲 石井末一 喜多勝)